デジタルな戯言

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身近な人の死

私は、今年の7月にアルバイト先の同期を、8月に曾祖母を亡くした。

曾祖母については昔から危ない状態が続いていたし、既に100も超えていたので覚悟はできていた。そのため亡くなったと聞かされた時も冷静に受け止められたように思う。今思えば単に感情が働いていなかっただけなのかもしれないが、葬儀にもシステマティックに形式通りに参加し、すべきことをした。

 

だが、8月に同期の訃報を聞いた時は目の前が真白になった。

 

普段真顔で冗談を言う奴が、突然真顔で真剣な話があると言ってきた。

その時話を聞いたのは私と同じくアルバイト先の同僚の二人。その話を教えてくれたのも同期だった。

 

 

 

「××が交通事故で亡くなった」

 

ロジカルな彼らしく、淡々と要点を掻い摘んで話してくれた。話を聞いていた僕達は

「どうせまた冗談だろ。今度はなんのドッキリだ。流石に不謹慎だろう。」

とニヤけ顔を張り付かせていたが、話が現実味を増していくや次第にその顔を強張らせていった。

 

その後のことはあまり覚えていない。話を聞いた直後にバイトのシフトが入っていたこともあり、訳もわからず動転しながら勤務先まで走った。

 

何せ初めてだったのだ。彼は曾祖母の前に亡くなったから、自分にとって身近な人が亡くなるというのは初めての経験だった。しかも少し前には彼の家にお邪魔して彼の手料理を振る舞ってもらった。お腹空いてるでしょ?と言いながらキッチンに立つ彼の後ろからは女子力が後光のように射していて、本気で感嘆したことを覚えている。

 

男が5,6人、お世辞にも広いとは言えない家に押しかけて、散々騒いだ挙句ベランダで大音量で下品な動画を流してみんなで大爆笑した。明日は早いからと言って屋根裏のベッドで一人寝ようとする彼を、彼の訃報を教えてくれた奴が何度も邪魔しにいって彼は半分本気で迷惑がっていた。でも彼は本当に優しい奴で、忙しくない時に是非またみんなで集まりたいと言ってくれた。そういえば彼の部屋にアコースティックギターがあって、演奏してくれたのも覚えている。どうせ齧っている程度だろうと思っていたら存外に上手くて聞き惚れてしまった。確かBUMP OF CHICKENの曲だったと思う。

 

とても優しくて、地元想いで、のほほんとしている奴だった。

 

みんなにいじられたりイタズラされた時の困り顔が印象的で、彼の前だとみんな無邪気になれていたように思う。彼が自然体だから周りも自然とそうなってしまう、不思議な影響力を持った人物だった。

 

仲の良い友人だったが、親友ではなかった。あくまでアルバイト先の同期だったし、付き合いも1年とちょっとしか無い。だけど、自分が受けたダメージは想像以上に大きかった。

 

何をしても「彼は死んでしまったのに自分はなんで楽しいことをして楽しいと感じてしまうんだ」と思ってしまい、しばらくは娯楽に罪悪感が影のようにまとわりつく日々が続いた。

 

普段自分は感傷的になってしまう出来事があった時、こうやって人に見える媒体でアウトプットをすることで気持ちの整理をするようにしている。誰かに話しかける体で、誰かに理解してもらえるように、ということを念頭に置いてアウトプットをすると自分の中でも整理が進むからだ。

 

だが、今回はそれもできなかった。「お前は彼の死を感傷に浸る道具にしている」。そんな声が聞こえてきそうだったからだ。

 

実際、訃報を聞いた時から今までずっと、彼のことを思い出す度に私は感傷的になっている。今でこそ自分の感傷にある程度折り合いをつけられているが、訃報を聞いてから3ケ月程は感傷に浸ろうとする自分が許せなかった。

 

有名なアーティストが死について唄った歌を聞いて感傷に浸るのも、誰かに友人を亡くした悩み、相談をして同情を得てしまうことも許せなかった。これは自分が尊いとかそういうことでは全くなく、むしろ逆で自分の悲しみを別の汚いものに置き換えてしまうのが怖かったのだ。もしかしたら自分は友人の死を利用して誰かの同情を得ようとしているのかもしれない。そんなことを考える度に何もできなかった。

 

「彼の死を無駄にしないよう彼の分まで生きよう」だとか「彼の死は私たちに大切なことを教えてくれた」みたいな綺麗事を聞く度に怖気がした。気持ち悪いと思った。

 

人の死を美化して自分達のセルフブランディングだったり成長の糧にしてしまおうとする考えが恐ろしい。理解できない。

そう思っていた。

だけど、結局人はそうして自分の感傷と折り合いを付けていかなければ死を克服することができないのだということに最近気付いた。カラ元気だろうが虚言だろうがセルフブランディングだろうが、そういった建前を作らなければ人の死を克服することはできない。自分の場合はこういうブログを書いて感傷に浸っていることがそうだ。形はどうだっていいからとにかく吐き出さなければいけないのだ。

 

感傷に浸ってしまうこと自体は半分防衛機制のようなものだと分かったので、もう抗うことはしていない。この記事だってかなりセンシティブな文章で構成されているだろうが、敢えて修正しようとも思わない。極端な話、誰が読んでくれなくたっていいのだ。自分が誰かに向けて書いていればそれでいい。それだけでこの記事は十分役割を果たしている。

 

 

明後日、大学で逝去者記念礼拝が執り行われる。

仮にも12年間キリスト教精神のもと育てられてきたので、礼拝に対する造詣は深い。私自身は不可知論者なので、神もキリストも存在については言及できない。ただ、あの空間には不思議な癒やしの効果がある。自分の周りで礼拝が嫌いだという中高の友人は一人もいなかった。むしろみんな好きだったと思う。もちろんキリスト教信者の奴なんてほぼいなかったし惰性で聖歌を歌って聖書を読んでいただけだったが、不思議と嫌いじゃなかった。

 

いつまでも自分の感傷と戦って、グチャグチャな思考のまま礼拝を迎えたくはなかったのでこのタイミングで吐き出すことにした。人によっては独りよがりなセルフブランディングだと捉えられてしまうかもしれない。でも、自分にとっては彼の死とまっすぐ向き合うために必要な行動なのだ。

 

 

ここまで書いて気づいたが、結局僕は彼の死を受け止めてから自分のことしか考えていない。彼の遺族に出来る限りのことをしてあげようだとか、そういったことは全く考えられていなかった。本当に彼のことを考えるのであれば自分の感傷とゴニョゴニョするより他にもっとできたことがあった。

 

ちょっと前に一人の同期が彼のアルバムを作るから協力してくれる人は声をかけてほしいというメーリスを流していた。それを遺族に送って慰めになるのかどうかは分からない。もしかしたら逆に迷惑になるかもしれない。ただ何も行動を起こさず一人でウジウジしていた自分よりは確実に彼の方が前向きだった。

 

今自分がすべきことは単純だ。

感傷を受け入れるにしろ押し殺すにしろ、ひとまず置いておいてロジカルにタスクを設定して淡々とこなし、アルバムを作り、自分の感情ではなく遺された家族の方(彼にとって一番大切だった人)にとって何が一番助けになるのかを考えることだろう。

 

綺麗事かもしれない。だけど、僕はもう抗わない。

 

自分が自分の中でグチャグチャやっていても誰の為にもならないから。

だったらとりあえず自分だけでもスッキリさせて、更に遺族の方のためになることを本気で考えた方がよっぽど建設的なはずだ。

例えそれが無意識の偽善だったとしても。